二河白道解説

善導大師『観経四帖疏』での解説

二河白道は中国における浄土教の大成者 善導大師(613~681)が

信心を表すために『観経四帖疏』で用いた比喩 たとえ話です

『観経四帖疏』では「二河白道」の比喩話に続き解説が続きます

「次にこの譬えの意味を法義に合せて示そう

東の岸というのは 迷いの娑婆世界をたとえたのである

西の岸というのは 極楽世界をたとえたのである」


盗賊や恐ろしい獣が親しげに近づくというのは 衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大をたとえたのである 

人影一つない広野というのは いつも悪い友にしたがうばかりで まことの善知識に遇わないことをたとえたのである」


白い道が四、五寸…約15cm

河の幅が百歩…約50m

水と火の二河 というのは 衆生の貪りや執着の心を水にたとえ 怒りや 憎しみの心を火にたとえたのである

間にある四、 五寸ほどの白い道 というのは 衆生の貪りや怒りの心の中に 清らかな信心がおこることをたとえたのである 貪りや怒りの心は盛んで あるから水や火にたとえ 信心のありさまはかすかであるから四、 五寸ほどの白い道にたとえたのである

また 波が常に道に打ち寄せる というのは、 貪りの心が常におこって 信心を汚そうとすることをたとえ

また  炎が常に道を焼くとは 怒りの心が信心という功徳の宝を焼こうとすることをたとえたのである」


道の上をまっすぐに西へ向かうというのは、 自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたのである

東の岸に人の勧める声が聞え 道をたどってまっすぐ西へ進む というのは 釈尊はすでに入滅されて、 後の世の人は釈尊のお姿を見たてまつることができないけれども  残された教えを聞くことができるのをたとえたのである すなわち これを声にたとえたのである。

 少し行くと盗賊などが呼ぶ というのは 本願他力の教えと異なる道を歩む人や 間違った考えの人々が  念仏の行者は勝手な考えで お互いに惑わしあい  また自分自身で罪をつくって さとりの道からはずれ その利益を失うであろう とみだりに説くことをたとえたのである 

西の岸に人がいて喚ぶ というのは 阿弥陀仏の本願の心をたとえたのである」


 「間もなく西の岸にたどり着き 善き友と会って喜ぶ というのは 衆生は長い間迷いの世界に沈んで はかり知れない遠い昔から生れ変り死に変りして迷い続け 自分の業に縛られてこれを脱れる道がない そこで 釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け また阿弥陀仏が大いなる慈悲の心をもって浄土へ来れと招き喚ばれるのによって 今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせ この世の命を終えて浄土に往生し 仏とお会いしてよろこびがきわまりない このことをたとえたのである」

 

「また すべての行者よ 何をしていてもいついかなる時でも この他力回向の信心を得て間違いなく往生できるという思いがあるから これを廻向発願心というのである

また 回向というのは 浄土に往生して後 さらに大いなる慈悲の心をおこして 迷いの世界に還って衆生を救う これも回向というのである」 

 

(浄土真宗聖典『顕浄土真実教行証文類(現代語訳版)本願寺出版社)





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コメント: 1
  • #1

    中村宏述 (木曜日, 23 9月 2021 09:22)

    尊い教えが身につくように努力いたします。
    ありがとうございました。
           なまんだぶ なまんだぶ